レオンは目線だけで壁の時計を見た。
 もうすこしで新しい日がやってくる。その事実を頭から追い払って、向きあったソファに腰
かけている男を見遣った。
 夕方、連絡もせずに突然この家を訪れた。
 男――クラウザーは、驚きはしたものの、拒むことはなく、レオンを家の中へ入れた。
 部屋に足を踏み入れると、香ばしい匂いがレオンの嗅覚をくすぐった。キッチンのほうへ
鼻を向けて、くんと鳴らす。
『…鱈のムニエルだ』
 クラウザーが低い声で言った。
 鱈の。ムニエル。
 ムニエル。
 軍服や迷彩服ではなく、薄いブルーのストライプが入った清潔そうな白いシャツ。髪も邪
魔にならないように撫でつけられたオールバックではなくて、ラフな感じに掻き上げられて
いる。
 意外とクラウザーが料理好きなことはもう知っている。そればかりか、突然いつ来ても、部
屋の中はきれいに片づけられているのも熟知している。
 だがクラウザーはクラウザーだ。
 任務中の風体を思い起こせば、間違っても「ムニエル」なんて言葉は似合わない。
 こみ上げた笑いを、ぐっと喉の奥へと戻して、レオンはワインのボトルを掲げて見せたのだっ
た。
 舌鼓を打ったディナーの皿は、とうの前に片づけられている。持参したワインのボトルも空っ
ぽになっていた。
 明日。クラウザーの朝が早いことを知っている。今、所属している組織の任務でアフリカの
奥地へ行くのだ。
 いつ帰ってくるのかは訊いていないし、訊くつもりはない。そんな女々しい質問はしないに
こしたことはない。
 はっ、と短いため息を吐くと、レオンは重い腰を上げた。
 雑誌を捲っていた手を止めたクラウザーが顔を上げる。
「…帰る」
 ひとことそう告げて、ジャケットを肩に掛ける。
 クラウザーが雑誌をテーブルの上に置いた。立ち上がって、玄関へと向かうレオンのあとを
追ってくる。
 ドアを押し開けたレオンの頬を水滴が打った。手のひらを翳して上空を見上げる。ぱらぱらと
小雨が降り注いできていた。
 踏み出そうとしたとき。
「…三ヶ月」
 呟きが背中から聞こえた。
 その声に振り返らず、レオンは手のひらの雨を握り潰すと黙って歩きだした。
 家の前庭に停めてあるバイクのところまで真っ直ぐに歩いて、ヘルメットを手にする。
 クラウザーの視線は感じていたが、そちらに目は向けない。ヘルメットに付着した雨粒を指で
払った。
「三ヶ月って…事務的にあっさり言いやがって」
 間違ってもクラウザーには聞こえない小声で呟く。
「俺がどんな気持ちで今日来たとか、朝早いのがわかっててもこんな時間まで帰らなかったこ

ととか…そういうこと、あのおっさんはなんにも考えないんだもんな」
 ばかばかしい、と吐き捨てたとき、足音が近づいてきた。
 レオンは急いでヘルメットを被ろうとした。その手をつかんで阻止される。ヘルメットが地面に
叩きつけられた鈍い音が辺りに響く。
「……っにすんだよ」
 きっ、と睨むと、クラウザーが嘆息した。
「…行くな」
 雨音の中、静かな声が耳殻に届く。胸がきゅっと引き絞られて、レオンは唇を噛んだ。
 腕を引かれ、
「いてくれ」
 両肩を掴まれ、
「……いろ」
 向き直らされて言われた。
 かぁっと目の奥が熱くなって、レオンは瞬きするのを我慢して唇を尖らせた。
 そろ、とクラウザーの顔を見遣る。逸らすことなく、真っ直ぐに見つめてくる双眸と合う。
 レオンは、わざと大きなため息をついた。
「明日…早いくせに。……無理しやがって」
 声が上擦ってしまいかけるのをクラウザーの胸に顔を埋めて誤魔化した。
 ふっ、と安堵したような吐息が額に降りかかる。
 これ以上、我を張るつもりはない。クラウザーの扱いはわかっているはずだ。わかっているは
ずだったけれど…。
 顔を上げると、性急に唇を塞がれた。
「ん…ぅ?」
 レオンは大きく目を見開いて、眼前のクラウザーを凝視した。
 真夜中でだれも歩いていないとはいえ、ここは閑静な住宅街の一角。しかも外だ。こんな場
所で、まさかキスなんかしてくるなんて…。
 信じられなくて、レオンは身動きできず、息さえ止まった。
 ゆっくりと唇が解かれる。
 それでもレオンは動かなかった。
「あまり濡れると身体によくない。シャワー…どうだ、一緒に」
 キスのあとに続いた言葉。それにも驚愕した。
 瞠目したまま、こくこくと首を縦に振るだけ振った。
 くるりと踵を返して家の中へと戻っていくクラウザーの背中を眺め、はっと我に返る。
「……な……んだよ。そんなあんた……今までどこに隠してたんだよ…」
 不意打ちのキスと思いもよらない言葉。レオンの手の中の辞書の中に、そんなクラウザーはい
なかった。
 レオンはちっ、と舌を打って、急いでクラウザーのあとを追いかけた。
 
 
<END>

   2011,01up

なんだかふいに書きたいものを書き殴ったもの。
ハロウィンSSに続いて、レオンくんのクラウザーさん家訪問第二弾な感じです。笑。

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